他の人のブログ内容ですが、お気に入りなので、消されたら困るからコピーしておく… ― 2021/05/11 22:06
好きな記事なので、なくなると困ることから貼り付けときます。
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桜蔭の女の子
2012年10月23日(火)
高校時代の話です。
桜蔭に通っている知り合いの女の子がいました。
彼女とは、3年生のとき友人を通してある図書館の自習室で知り合いました。
今日は、その桜蔭の彼女がやっていた「スピードぐるぐる勉強法」について書いてみたいと思います(←苦し紛れにネーミングしただけです)。
彼女は優秀な桜蔭生の中でも極めて学力が高く、毎回の模試で志望校欄に「東大文Ⅰ」と書き、そして毎回のようにA判定を獲得していました(A判定以外取ったことがないと言っていたような・・・)。
私は、いまと違い当時は人間の地頭(=先天的能力)の存在を完全に信じていたので、彼女みたいな人間は私とは別次元の存在、別の惑星に住む宇宙人だくらいに考えていました。当然、人の学力には先天的レベルの違いがあると信じていたので、彼女が如何に優秀であろうと、彼女の真似をしようだとか、何か一つでも盗めるものはないかとか、そんなことは全く考えませんでした。
そんなある日のことです。
彼女が「今日から世界史の勉強を始める」と言っていたので、(野次馬的な興味はあったので)それじゃ彼女の勉強の仕方でも覗いてみようと思い立ち、しばらく(数分程度だったと思います)彼女の斜め後ろ辺りから、彼女の勉強の動作を観察したことがありました。
その「動作」は、当時の私にとって、たいへん驚くべきものでした。
彼女は、世界史の教科書を、読むというよりほとんど眺めるように、ちゃんと理解しながら読んでいるとは到底思えないような速いスピードで、ページをめくっていきました。
いわゆる「速読」というものよりはずっと遅いですが、まるでマンガでも読んでいるかのようです。
テキトーに、力を抜いて、とにかくどんどん先へ進んでいくのです。
時折、気づいたように、1ページに2~3箇所くらい、シャーペンで「ピッ」と記を付けていきます。
なんというか、しっかりとアンダーラインを引くのではなく、ちょっと斜めった感じの線を、チェックを入れるようにして、「ピッ」と一瞬で引いてしまう感じです。
そんな「動作」を、ほんの数分、呆然と眺めていました・・・。
彼女が教科書を閉じて休憩に入ったので、すかさず私は聞いてみました。
叫び 「○○ちゃん、そんなやり方で覚えられるの?」
彼女は笑いながら答えました。
おとめ座 「覚えられるわけないよー。だからこれから何度も読むんだよー」
叫び 「何度もって、何回くらい?」
おとめ座 「う~ん。100回とか? 200回とか・・・?」
・・・なんじゃそりゃ(?)。
そう思いました。
私だったらそんなやり方はできないし、そもそもそんなやり方で覚えられるわけがない。
勉強をするというのは、もっとこう、マークをしたり、書き込みをしたり、ノートを作ったりetc…そんな風にちゃんと勉強することを言うんだ。
あんな風に、ただテキトーに読んでいくだけの勉強なんて、そんなの「勉強」じゃない。
私は思いました。
そうか。やっぱりこの子は特殊なんだ。 天 才 なんだ。 天才だからこんなやり方をするんだ。
「オールA判定で東大に行く人って、こういう人なんだ・・・」
何ひとつ、参考にできる部分があるとは思いませんでした。
やっぱり違う人は最初っから違うんだなぁ~、としか思えませんでした。
ちなみに、彼女はその日の数時間で、世界の全歴史をひとまず最後まで読み終えていました。
********************
・・・時は過ぎ、3年生の12月を迎えていました。
私は、理系クラスであったにもかかわらず、
①国語が超得意科目になっていたこと
②高校2年くらいから、担当教師のせいでどんどん数学嫌いになっていったこと
以上の理由から、3年の夏休み頃に、理系クラスに在籍したまま、文系への転向を決めていました。
受験科目は、私大受験でいうと「英・国・数」です。選択科目は数学です。
腐っても理系なんだから、やっぱり選択科目は数学でしょ、というノリです。
しかし、よくよく考えてみれば分かることですが、数学アレルギーを発症したせいで文系に転向した私が、数学選択を維持することには最初から無理・矛盾がありました。
そもそも、勉強という勉強を人生でほとんどしてこなかった私です
それでなくてもやらないのに、更に輪をかけて「嫌い」まで付いてくる数学(=文系数学)の成績が上がるはずもなく、12月を迎えても偏差値は40台のまま「安定」していました(ちなみに英語も40台でした)。
叫び 「やばい・・・このままでは大学に行けない・・・」
焦りだけは最高潮に達していた私は(※勉強しない人ほど焦る←受験あるある)、12月の半ばになって、つまりセンターまであと1ヶ月という時期になって、突如、私大受験の選択科目を数学から世界史に変更することにしたのです。
世界史はそれまでほぼ勉強したことがありませんでした。もちろん、教材も持っていませんでした。
そこで、当時受験生の間で定評があった山川出版の世界史の教科書を急いで買ってきて、とにかくそれだけに絞って勉強していくことにしました。
多くの受験生が持っていた教材、用語集・歴史地図・人名事典・過去問集・問題集・一問一答etc…、そういった参考書の類は一切ありませんでした。文字通り、山川世界史一本勝負です。
やり方はシンプルで、まずひと回し目に人名に赤マーク、その他の主要な事柄には黄マークをしました。そして、あとはひたすら繰り返し教科書を読んでいくだけという単細胞な方法です。
もう、それしかする時間がなかったのです。
周りの受験生は、一問一答を解いたり、用語集を参照したり、模試を受けたり、様々な教材を使って様々な勉強をしていましたが、私にはそんな余裕は全くありませんでした。山川世界史で手一杯、というより、それ以外の教材を勉強する時間自体がありませんでした。
勉強方法の点でも、当時の私は和田秀樹の名前すら知りませんでした。
勉強には方法があるなんてこと自体を知りませんでした。
当時の私は、勉強とは才能と努力のみでするものだとしか考えていませんでした。
何らかの形で勉強を工夫してみようなんて発想がでてるく余地は、どこにもありませんでした。
このように、当時の私には、教材という選択肢も、勉強法という選択肢も、どちらもありませんでした。
できることといえば、ただ闇雲に焦ること。それしか選択肢がなかったのです。
ただひたすら焦って、山川世界史一冊と心中する。
これが当時の私にできたすべてでした。
ともあれ、センターまでの1ヵ月間、闇雲ながらも怠け者の割には結構頑張ったと思います。
もっとも、普通の受験生なら、遅い人でも4月、早い人なら1・2年から勉強を始めているわけです。
正直、心の中では「どうせ1ヶ月じゃ無理だよね・・」と諦めの境地になっていたのは事実です。
ところが、です。
これは我ながら非常に驚いたのですが、1ヶ月が経ち、センターまで残り数日となった頃、自分がいつの間にか教科書の内容を全部覚えてしまっているという事実に不意に気づきました。
ただひたすら教科書を読んでいただけなので、それまでは記憶の確認もしていなかったのですが、ふと思い立って頭の中で問題を作ってみると、それらの問題に全て答えられてしまう自分がいました。
1ヶ月では絶対に無理だと思っていたのに、よく分からないけど間に合ってしまったようでした。
センター試験本番の得点はたしか89点だったように記憶しています。私には大満足な結果でした。
ちなみに、ここに挙げた「勉強法」では、最初のマーク期間に1週間を費やして、その後の繰り返しはもの凄いスピードでやりました。1ヶ月で合計数十回(1日に2~3回)は読んだと思います。
最後のほうでは1日に何回しもできるようになっていたので、ひょっとすれば100回以上読んだかもしれません(正直にいえば、もう何回読んだのか分からないくらい読んだ&読めるようになっていました)。
とにかく焦っていたので、ゆっくりじっくりやっている暇自体がなかった、というのが率直なところです。
狙って、つまり勉強方法として意図して、あえてそういう方法を採ったわけではもちろんありません。
もし、世界史を始めたのが春や夏だったら、もっとゆっくりじっくりやってしまっただろうと思います。
教科書を一冊に絞ったのも、教科書をハイスピードで回したのも、繰り返し何十回も読んだのも、しつこいですが、それ以外に選択肢がなく、そうせざるを得なかっただけのことなのです。
世界史の偏差値が最終的にどこまで行ったのかは、模試を受けていないので分かりません。
ともあれ、この世界史の1ヶ月が功を奏して、私はなんとか無事大学生になることができました。
私が大学受験でともかくも意識的に勉強をしたのは、この1ヶ月が全てでした。
以前、国語で問題集を1冊解いたことがあるというエピソード を書いたことがあります。
国語が超得意科目になったきっかけで、そのエピソードを「勉強」に入れてもいいのですが、そのときは興味本位でちょっと試してみた程度でしたし、しかも1週間程度やってみただけのことなので、これをちゃんとした勉強と呼ぶのは少し無理があるかなぁ、と考えています。
ちなみに、私が大学受験の勉強でも司法試験の勉強でも、「本当にほとんど何もやらなかった」と言うと、反射的に「嘘つけ」と言ってくる人がいます。「格好つけちゃダメだよ」と言われたこともあります。
でも、地頭説の信者には理解できないでしょうけれども、人はやれば必ずできるようになるのです。
できていないのは、やっていないことに他ならないのです。
「できていない」のは、①方法が間違っている or ②努力していない のいずれかです。
やっていない(勉強していない)という意味ではどちらも同じようなものです。
私は努力(②)する習慣を根源的に欠いていましたが、一般人基準ならそんな人はたくさんいます。司法試験受験生のような努力癖が備わっている人の中では、こういうタイプは珍しいというだけです。
むしろ、一般人基準では、何もやっていないから何もできていない人のほうが圧倒的に多いです(もちろん、そういう人が単に努力さえすれば直ちにできるようになるなんて保証はどこにもありません)。
司法試験受験生のような努力(②)する習慣ができている人でも、方法(①)が間違っているために、実質的には勉強していない人がたくさんいます(というか、ほとんどの司法試験受験生がそうです)。
そういう人は一般に、ただ怠けているから結果が出ない人と違い、苦労しながら結果が出ないという辛い目に会っている分、能力をめぐる思想に強い歪みを持った人が多くなります。プライドとコンプレックスに引き裂かれたような、めんどくさい人格構造を持った司法試験受験生が多いのも、こういった事情を考えると頷けるところです。
しかしです。司法試験受験生のような努力する習慣(②)を身につけている人には理解できないことだと思いますが、単に努力ができないということも(人格は歪みませんが)それはそれで結構しんどいものなのです。この巨大な壁を乗り越えようと私がどれだけ苦労したことか・・・いずれ機会があればまた。
********************
私が何の意図もなく行った世界史の1ヶ月が、桜蔭の彼女の自覚的な方法論に極めて似ている(その劣化版である)ことに気づいたのは、それからずっと後、司法試験受験生になってからです。
司法試験を始めて勉強に方法があることを知り、何人もの優秀な受験生&合格者に出会い、更に一部の飛び抜けて優秀な受験生たちと、広く試験勉強一般から司法試験に至るまで、あらゆる方法という方法を検討していく中で、上記の勉強法が、正当な方法の一つであったことに気づきました。それは、桜蔭の彼女がやっていた方法そのものでしたし、私も部分的には実行していたものに違いありませんでした。
この「スピードぐるぐる勉強法」の特徴を適当に列挙します。
①とにかく早く回す。
②質のことは考えない(質は後回しにする)。
③適度に力を抜く(意識的にちゃんとやらない)。
④早く回せば、1回にかかる時間が短いので、何回も(何百回も)回せる。
⑤早く回せば、人が1回やっている間に10回以上回せる。その差は加速度的に広がっていく。
⑥何回も回すと、何回も同じものを見ることになるので、更に加速度的に早く回せるようになる。
⑦何百回も回せば、その内容は完全に自分のものになる(対象を潰し切ることができる)。
⑧最後には、じっくりやっている人との間に、隔絶した差が生まれる。
(以下、心構え)
⑨人間には本来こういう能力が備わっているのだと、常識をいったん捨てて信じる。
⑩自分も人間である以上、自分にもそれができると信じる。
まず⑥から解説すると、司法試験のような、自分が法そのものになるくらい法に習熟することが求められる試験では、じっくりやろうと早くやろうと、最終的には数百回・数千回と繰り返す必要があるのです。
当ブログの方法論とは真逆の努力型の受験生も、間違いなくそこまでやって合格しています。じっくりやったら最終的に回す回数が劇的に減らせるかというと、そんなことはないと私は思います。
⑦は、このブログで主張している「手を広げない」方法と表裏の関係にあります。
手を広げなければ、たとえ最初はじっくり回していても、範囲が限定されているぶん習熟も早くなるため、1回に回すすスピードが上がっていきます。そうなると、回す回数も劇的に増えていきます。回す回数が桁違いに増えてくると、内容を完全に潰し切る(=自分のものにする)ことができるようになるのです。
教材の浮気を繰り返している人は、永遠にこのサイクルに入れません。
方法論には疎く、ただ真面目だけが取り柄のような女子が司法試験では結構順当に受かりますが、これは、彼女が真面目→手を広げない→潰すというサイクルに自然に入っていくことができるからです。
②についても少し触れておくと、人は油断するとすぐに意味を求めてしまう生き物だということです。
テキストを読んでいても、力を抜いて適当に流し読むのは案外難しいものです。質=意味のことは気にしないと言い聞かせても、すぐに「意味」を把握できる水準まで読むスピードを落としてしまうのです。
最後に。一番難しいのは、③と⑩です(②を加えてもいいです)。
この③⑩の難しさゆえに、私は、この勉強法は万人におすすめできるものではないと思っています。
あくまで私が奨励している最重要の方法は、手を広げないことです。
これができていれば、最終的には誰でも「潰す」ラインまで到達することが必ずできます。
ですから、今回紹介した方法が自分に合わないからといって、どうかそこはあまり気にしないでください。実際、この方法は、受験オタクの注目を集めるほどには、実行可能性の高い方法ではありません。
私が今まで「手を広げない」ことと「潰す」ことばかりを強調してきたのは、そういう意味もあります。
速さは、いかなる意味でも受験の本質ではありません。
本質はむしろ「手を広げない」ことにあります。この堅実さをこそ、私は強調したいです。
手を広げさえしなければ、いずれ、速く回すというステージが自然にやってきます。
手を広げずに何度も教材を回していれば、回すスピードは自然に速くなっていきます。
スピードが速くなっていけば、それに比例して回す回数も加速度的に増えていきます。
そうなれば、必然的に対象を潰し切る地点まで到達することができるのです。
したがって、初期の段階で、教材潰しを「ゆっくりじっくり」行うことは、特に問題はないと考えます。
まず、③適度に力を抜くことができない一番の原因は、これを適当にやってしまうからではありません。
むしろ、適当にやろうと思っても、適当にやることが難しいことに一番の原因があります。
適当に力を抜いて読めばいいと言われれば、誰でも実行可能な方法のように思えるのですが、その割に、私の受験仲間でこの方法を試して上手くいった人はそう多くはありません。
この方法には独特の難しさがあるからです。
一言でいうと、この方法には適当にやり続ける根気、あるいは慣れのようなものが必要なのです。
適当にやり続ける根気とは、楽をする努力と言いかえてもいいです。
これがないと、すぐに教材を回すスピードに無意識がブレーキをかけてしまいます。
上の青字部分で書きましたが、司法試験受験生のほぼ100%が、苦労する努力を習慣化する能力を身につけています。しかしそれゆえ、いわば「楽をする努力」がなかなかできないのです。
おそらくは、頑張って楽をしようとしても、無意識に染みついた苦労する能力との間でジレンマが起こり、楽な勉強にブレーキをかけてしまうのでしょう。
つまり、努力型受験生がこの方法(適当に読む方法)を実行しようと努力すると、次第に「楽をする努力」に疲れてきて、結局、住み慣れた「苦労する努力」に帰っていってしまうのではないかということです。
皮肉な話ですが、ほとんどの司法試験受験生にとっては、いまや苦労するほうが楽だからです。
彼らには、そのほうが馴染みがあるからです。
「楽をする努力」ができない根本的な原因は、普通、人にとって、「努力する」とは、苦労することを意味しているからです。逆にいえば、「楽をする」とは、努力していないことを意味するからです。
努力型受験生には、このテーゼが一般人よりはるかに深く心に刻み込まれています。
彼らは、自分が努力できることにアイデンティティ(自分が一般人と異なる優れた存在であるとの証)を見出しています。一般人よりも努力できることが、彼らを彼らたらしめているのです。
そう考えると、彼らに「楽をする努力」ができないのは、むしろ当然といわなければなりません。
彼らにとって、そんなものはそもそも「努力」ではないからです。
「楽をする努力」なんて言葉は、彼らにとって語義矛盾でしかありません。
自らのアイデンティティにかけて、そんな方法を採るわけにはいかないのです。
彼らには、試験に受かることなんかより、ずっとずっと大切なものがあります。
彼らはとにかく 努力=苦労がしたい のです。
ちなみに、楽をすると、人は普通、罪悪感に駆られます。自分がズルをしているように感じるのです。
この罪悪感の発生もまた、今回の「スピードぐるぐる勉強法」だけでなく、受験生(特に努力型受験生)に勉強法一般を存分に駆使することを躊躇わせる根本的な原因となっているように私には感じられます。
よく「自分の中のリミッターを外す」なんて言いますが、これは言うほど簡単なことではありません。
人間は習慣の生き物です。その習慣を変えろというのは、自分の人格を変えろと命令されるくらいの抵抗感を人に与えるのではないでしょうか。今までのやり方と根本的に異なる思考・方法は、人間に強い拒絶反応をもたらすのです。
一方で、私などはあまり抵抗なくこの方法が採れるのですが、それはまず私がそもそも努力する能力に住み慣れていないことがあります。リミッターを外すといった面倒な作業をする必要がないのが一番大きな理由です。あとは、無茶苦茶怠け者なので、楽をすることにどこまでも貪欲になれることです。
また、今までの読書経験から、本の読み方に複数のパターンを持っていることも大きい気がします。
私はアンチ速読派ですが、たとえば、新書1冊を5分でざっと見るパターンや、帰りの電車で1冊を30分で流し読むパターンには、たぶんかなり習熟しています。
こういう読み方ができる人には、「スピードぐるぐる勉強法」は無理なく採用できる方法だと思います。
繰り返しますが、私自身は、この方法は万人におすすめできるものだとは思っていません。
方法論として、絶対に採用しなければならないものだとまでは思っていません。
この方法を採用しなくても、大学受験でも司法試験でも、何の問題もなく合格できると思います。
ただ、このブログでも再三書いているように、人はやったことはやった分だけできるようになります。
ですから、現時点でこの方法が向かない人であっても、訓練次第ではできるようになるはずです。
以下、今回のエントリーに興味を持って積極的にやってみたいという方に、私が有効だと考える方法を少し書いておきたいと思います。
まずは、
【1】とにかく速度を落とさないように気をつける。
【2】自分にそれができるということを、とにかく意識して疑わない。
既に述べたことですが、心構えの問題としてこの2点が非常に重要です。
さらに具体的なアドバイスですが、
【3】具体的な時間を設定することで、いつまでに読み終えるかを先に決める
といいと思います。
つまり、速く読むという動作を意識するのではなく、読み終える時間を意識するのです。
先に時間的な制約を作って、それを動作として守るように心掛けるわけです。
たとえば、どこからどこまでを10分で「見る」と決めたら、絶対に10分で見終えます。
電車が駅に着くまでにここまで読み終えると決めたら、それまでに絶対に読み終えます。
あと1時間で自習室が閉まる。それまでに間に合わせると決めたら、絶対に間に合わせます。
あたかも時間ピッタリにしゃべり終える生番組の司会者のように、何分と決めたらその時間までに必ず、(終了時間ピッタリに)終えられるよう努力してください。そうやって、環境(時間)に合わせて動作を自在に調整できるよう心がけるのです。
動作を意識すると動作に力が入ってしまいますが、時間に意識を移すと動作の「力み」がとれます。
このように、自分が最もやりたい動作(=速く読むという動作)に意識を集中させずに、意図的に時間に意識を奪われるように仕向けると、(①~⑩のうちの)②③が上手くいくと思います。
おそらく、時間を強く意識すると、時間のほうに「力み」が持っていかれるため、動作のほうの「力み」がとれて自由になるからだと思います。
時間設定のコツですが、自分自身が設定した主観的なリミットよりも、電車の到着時刻や自習室の閉館時間のような、制度上強制的に終わりが来る客観的なリミットをターゲットにするほうが、格段に効果は高くなると思います。
先に述べたように、人間は習慣の生き物です。
こういった訓練を地道に積み重ねていけば、いずれはこちらがあなたの習慣になっていくはずです。
以上です(なんか今回は久々に長くなりました)。
【後日談】
件の桜蔭の女の子ですが、その後、彼女は東大の「文Ⅱ」に現役合格したそうです。
なんで「文Ⅱ」??
後日、友人から聞いたのですが・・・
おとめ座 「そもそも東大の男子をgetするために東大に行こうと思ったのに、
文Ⅰじゃ、相手が委縮して選択の幅が狭くなっちゃうかもしれない。
その点、文Ⅱだったら相手に “安心” してもらえるでしょ」
とのことでした。
・・・なんじゃそりゃ(?)。
https://ameblo.jp/getwinintest/entry-11379509883.html
桜蔭の女の子
2012年10月23日(火)
高校時代の話です。
桜蔭に通っている知り合いの女の子がいました。
彼女とは、3年生のとき友人を通してある図書館の自習室で知り合いました。
今日は、その桜蔭の彼女がやっていた「スピードぐるぐる勉強法」について書いてみたいと思います(←苦し紛れにネーミングしただけです)。
彼女は優秀な桜蔭生の中でも極めて学力が高く、毎回の模試で志望校欄に「東大文Ⅰ」と書き、そして毎回のようにA判定を獲得していました(A判定以外取ったことがないと言っていたような・・・)。
私は、いまと違い当時は人間の地頭(=先天的能力)の存在を完全に信じていたので、彼女みたいな人間は私とは別次元の存在、別の惑星に住む宇宙人だくらいに考えていました。当然、人の学力には先天的レベルの違いがあると信じていたので、彼女が如何に優秀であろうと、彼女の真似をしようだとか、何か一つでも盗めるものはないかとか、そんなことは全く考えませんでした。
そんなある日のことです。
彼女が「今日から世界史の勉強を始める」と言っていたので、(野次馬的な興味はあったので)それじゃ彼女の勉強の仕方でも覗いてみようと思い立ち、しばらく(数分程度だったと思います)彼女の斜め後ろ辺りから、彼女の勉強の動作を観察したことがありました。
その「動作」は、当時の私にとって、たいへん驚くべきものでした。
彼女は、世界史の教科書を、読むというよりほとんど眺めるように、ちゃんと理解しながら読んでいるとは到底思えないような速いスピードで、ページをめくっていきました。
いわゆる「速読」というものよりはずっと遅いですが、まるでマンガでも読んでいるかのようです。
テキトーに、力を抜いて、とにかくどんどん先へ進んでいくのです。
時折、気づいたように、1ページに2~3箇所くらい、シャーペンで「ピッ」と記を付けていきます。
なんというか、しっかりとアンダーラインを引くのではなく、ちょっと斜めった感じの線を、チェックを入れるようにして、「ピッ」と一瞬で引いてしまう感じです。
そんな「動作」を、ほんの数分、呆然と眺めていました・・・。
彼女が教科書を閉じて休憩に入ったので、すかさず私は聞いてみました。
叫び 「○○ちゃん、そんなやり方で覚えられるの?」
彼女は笑いながら答えました。
おとめ座 「覚えられるわけないよー。だからこれから何度も読むんだよー」
叫び 「何度もって、何回くらい?」
おとめ座 「う~ん。100回とか? 200回とか・・・?」
・・・なんじゃそりゃ(?)。
そう思いました。
私だったらそんなやり方はできないし、そもそもそんなやり方で覚えられるわけがない。
勉強をするというのは、もっとこう、マークをしたり、書き込みをしたり、ノートを作ったりetc…そんな風にちゃんと勉強することを言うんだ。
あんな風に、ただテキトーに読んでいくだけの勉強なんて、そんなの「勉強」じゃない。
私は思いました。
そうか。やっぱりこの子は特殊なんだ。 天 才 なんだ。 天才だからこんなやり方をするんだ。
「オールA判定で東大に行く人って、こういう人なんだ・・・」
何ひとつ、参考にできる部分があるとは思いませんでした。
やっぱり違う人は最初っから違うんだなぁ~、としか思えませんでした。
ちなみに、彼女はその日の数時間で、世界の全歴史をひとまず最後まで読み終えていました。
********************
・・・時は過ぎ、3年生の12月を迎えていました。
私は、理系クラスであったにもかかわらず、
①国語が超得意科目になっていたこと
②高校2年くらいから、担当教師のせいでどんどん数学嫌いになっていったこと
以上の理由から、3年の夏休み頃に、理系クラスに在籍したまま、文系への転向を決めていました。
受験科目は、私大受験でいうと「英・国・数」です。選択科目は数学です。
腐っても理系なんだから、やっぱり選択科目は数学でしょ、というノリです。
しかし、よくよく考えてみれば分かることですが、数学アレルギーを発症したせいで文系に転向した私が、数学選択を維持することには最初から無理・矛盾がありました。
そもそも、勉強という勉強を人生でほとんどしてこなかった私です
それでなくてもやらないのに、更に輪をかけて「嫌い」まで付いてくる数学(=文系数学)の成績が上がるはずもなく、12月を迎えても偏差値は40台のまま「安定」していました(ちなみに英語も40台でした)。
叫び 「やばい・・・このままでは大学に行けない・・・」
焦りだけは最高潮に達していた私は(※勉強しない人ほど焦る←受験あるある)、12月の半ばになって、つまりセンターまであと1ヶ月という時期になって、突如、私大受験の選択科目を数学から世界史に変更することにしたのです。
世界史はそれまでほぼ勉強したことがありませんでした。もちろん、教材も持っていませんでした。
そこで、当時受験生の間で定評があった山川出版の世界史の教科書を急いで買ってきて、とにかくそれだけに絞って勉強していくことにしました。
多くの受験生が持っていた教材、用語集・歴史地図・人名事典・過去問集・問題集・一問一答etc…、そういった参考書の類は一切ありませんでした。文字通り、山川世界史一本勝負です。
やり方はシンプルで、まずひと回し目に人名に赤マーク、その他の主要な事柄には黄マークをしました。そして、あとはひたすら繰り返し教科書を読んでいくだけという単細胞な方法です。
もう、それしかする時間がなかったのです。
周りの受験生は、一問一答を解いたり、用語集を参照したり、模試を受けたり、様々な教材を使って様々な勉強をしていましたが、私にはそんな余裕は全くありませんでした。山川世界史で手一杯、というより、それ以外の教材を勉強する時間自体がありませんでした。
勉強方法の点でも、当時の私は和田秀樹の名前すら知りませんでした。
勉強には方法があるなんてこと自体を知りませんでした。
当時の私は、勉強とは才能と努力のみでするものだとしか考えていませんでした。
何らかの形で勉強を工夫してみようなんて発想がでてるく余地は、どこにもありませんでした。
このように、当時の私には、教材という選択肢も、勉強法という選択肢も、どちらもありませんでした。
できることといえば、ただ闇雲に焦ること。それしか選択肢がなかったのです。
ただひたすら焦って、山川世界史一冊と心中する。
これが当時の私にできたすべてでした。
ともあれ、センターまでの1ヵ月間、闇雲ながらも怠け者の割には結構頑張ったと思います。
もっとも、普通の受験生なら、遅い人でも4月、早い人なら1・2年から勉強を始めているわけです。
正直、心の中では「どうせ1ヶ月じゃ無理だよね・・」と諦めの境地になっていたのは事実です。
ところが、です。
これは我ながら非常に驚いたのですが、1ヶ月が経ち、センターまで残り数日となった頃、自分がいつの間にか教科書の内容を全部覚えてしまっているという事実に不意に気づきました。
ただひたすら教科書を読んでいただけなので、それまでは記憶の確認もしていなかったのですが、ふと思い立って頭の中で問題を作ってみると、それらの問題に全て答えられてしまう自分がいました。
1ヶ月では絶対に無理だと思っていたのに、よく分からないけど間に合ってしまったようでした。
センター試験本番の得点はたしか89点だったように記憶しています。私には大満足な結果でした。
ちなみに、ここに挙げた「勉強法」では、最初のマーク期間に1週間を費やして、その後の繰り返しはもの凄いスピードでやりました。1ヶ月で合計数十回(1日に2~3回)は読んだと思います。
最後のほうでは1日に何回しもできるようになっていたので、ひょっとすれば100回以上読んだかもしれません(正直にいえば、もう何回読んだのか分からないくらい読んだ&読めるようになっていました)。
とにかく焦っていたので、ゆっくりじっくりやっている暇自体がなかった、というのが率直なところです。
狙って、つまり勉強方法として意図して、あえてそういう方法を採ったわけではもちろんありません。
もし、世界史を始めたのが春や夏だったら、もっとゆっくりじっくりやってしまっただろうと思います。
教科書を一冊に絞ったのも、教科書をハイスピードで回したのも、繰り返し何十回も読んだのも、しつこいですが、それ以外に選択肢がなく、そうせざるを得なかっただけのことなのです。
世界史の偏差値が最終的にどこまで行ったのかは、模試を受けていないので分かりません。
ともあれ、この世界史の1ヶ月が功を奏して、私はなんとか無事大学生になることができました。
私が大学受験でともかくも意識的に勉強をしたのは、この1ヶ月が全てでした。
以前、国語で問題集を1冊解いたことがあるというエピソード を書いたことがあります。
国語が超得意科目になったきっかけで、そのエピソードを「勉強」に入れてもいいのですが、そのときは興味本位でちょっと試してみた程度でしたし、しかも1週間程度やってみただけのことなので、これをちゃんとした勉強と呼ぶのは少し無理があるかなぁ、と考えています。
ちなみに、私が大学受験の勉強でも司法試験の勉強でも、「本当にほとんど何もやらなかった」と言うと、反射的に「嘘つけ」と言ってくる人がいます。「格好つけちゃダメだよ」と言われたこともあります。
でも、地頭説の信者には理解できないでしょうけれども、人はやれば必ずできるようになるのです。
できていないのは、やっていないことに他ならないのです。
「できていない」のは、①方法が間違っている or ②努力していない のいずれかです。
やっていない(勉強していない)という意味ではどちらも同じようなものです。
私は努力(②)する習慣を根源的に欠いていましたが、一般人基準ならそんな人はたくさんいます。司法試験受験生のような努力癖が備わっている人の中では、こういうタイプは珍しいというだけです。
むしろ、一般人基準では、何もやっていないから何もできていない人のほうが圧倒的に多いです(もちろん、そういう人が単に努力さえすれば直ちにできるようになるなんて保証はどこにもありません)。
司法試験受験生のような努力(②)する習慣ができている人でも、方法(①)が間違っているために、実質的には勉強していない人がたくさんいます(というか、ほとんどの司法試験受験生がそうです)。
そういう人は一般に、ただ怠けているから結果が出ない人と違い、苦労しながら結果が出ないという辛い目に会っている分、能力をめぐる思想に強い歪みを持った人が多くなります。プライドとコンプレックスに引き裂かれたような、めんどくさい人格構造を持った司法試験受験生が多いのも、こういった事情を考えると頷けるところです。
しかしです。司法試験受験生のような努力する習慣(②)を身につけている人には理解できないことだと思いますが、単に努力ができないということも(人格は歪みませんが)それはそれで結構しんどいものなのです。この巨大な壁を乗り越えようと私がどれだけ苦労したことか・・・いずれ機会があればまた。
********************
私が何の意図もなく行った世界史の1ヶ月が、桜蔭の彼女の自覚的な方法論に極めて似ている(その劣化版である)ことに気づいたのは、それからずっと後、司法試験受験生になってからです。
司法試験を始めて勉強に方法があることを知り、何人もの優秀な受験生&合格者に出会い、更に一部の飛び抜けて優秀な受験生たちと、広く試験勉強一般から司法試験に至るまで、あらゆる方法という方法を検討していく中で、上記の勉強法が、正当な方法の一つであったことに気づきました。それは、桜蔭の彼女がやっていた方法そのものでしたし、私も部分的には実行していたものに違いありませんでした。
この「スピードぐるぐる勉強法」の特徴を適当に列挙します。
①とにかく早く回す。
②質のことは考えない(質は後回しにする)。
③適度に力を抜く(意識的にちゃんとやらない)。
④早く回せば、1回にかかる時間が短いので、何回も(何百回も)回せる。
⑤早く回せば、人が1回やっている間に10回以上回せる。その差は加速度的に広がっていく。
⑥何回も回すと、何回も同じものを見ることになるので、更に加速度的に早く回せるようになる。
⑦何百回も回せば、その内容は完全に自分のものになる(対象を潰し切ることができる)。
⑧最後には、じっくりやっている人との間に、隔絶した差が生まれる。
(以下、心構え)
⑨人間には本来こういう能力が備わっているのだと、常識をいったん捨てて信じる。
⑩自分も人間である以上、自分にもそれができると信じる。
まず⑥から解説すると、司法試験のような、自分が法そのものになるくらい法に習熟することが求められる試験では、じっくりやろうと早くやろうと、最終的には数百回・数千回と繰り返す必要があるのです。
当ブログの方法論とは真逆の努力型の受験生も、間違いなくそこまでやって合格しています。じっくりやったら最終的に回す回数が劇的に減らせるかというと、そんなことはないと私は思います。
⑦は、このブログで主張している「手を広げない」方法と表裏の関係にあります。
手を広げなければ、たとえ最初はじっくり回していても、範囲が限定されているぶん習熟も早くなるため、1回に回すすスピードが上がっていきます。そうなると、回す回数も劇的に増えていきます。回す回数が桁違いに増えてくると、内容を完全に潰し切る(=自分のものにする)ことができるようになるのです。
教材の浮気を繰り返している人は、永遠にこのサイクルに入れません。
方法論には疎く、ただ真面目だけが取り柄のような女子が司法試験では結構順当に受かりますが、これは、彼女が真面目→手を広げない→潰すというサイクルに自然に入っていくことができるからです。
②についても少し触れておくと、人は油断するとすぐに意味を求めてしまう生き物だということです。
テキストを読んでいても、力を抜いて適当に流し読むのは案外難しいものです。質=意味のことは気にしないと言い聞かせても、すぐに「意味」を把握できる水準まで読むスピードを落としてしまうのです。
最後に。一番難しいのは、③と⑩です(②を加えてもいいです)。
この③⑩の難しさゆえに、私は、この勉強法は万人におすすめできるものではないと思っています。
あくまで私が奨励している最重要の方法は、手を広げないことです。
これができていれば、最終的には誰でも「潰す」ラインまで到達することが必ずできます。
ですから、今回紹介した方法が自分に合わないからといって、どうかそこはあまり気にしないでください。実際、この方法は、受験オタクの注目を集めるほどには、実行可能性の高い方法ではありません。
私が今まで「手を広げない」ことと「潰す」ことばかりを強調してきたのは、そういう意味もあります。
速さは、いかなる意味でも受験の本質ではありません。
本質はむしろ「手を広げない」ことにあります。この堅実さをこそ、私は強調したいです。
手を広げさえしなければ、いずれ、速く回すというステージが自然にやってきます。
手を広げずに何度も教材を回していれば、回すスピードは自然に速くなっていきます。
スピードが速くなっていけば、それに比例して回す回数も加速度的に増えていきます。
そうなれば、必然的に対象を潰し切る地点まで到達することができるのです。
したがって、初期の段階で、教材潰しを「ゆっくりじっくり」行うことは、特に問題はないと考えます。
まず、③適度に力を抜くことができない一番の原因は、これを適当にやってしまうからではありません。
むしろ、適当にやろうと思っても、適当にやることが難しいことに一番の原因があります。
適当に力を抜いて読めばいいと言われれば、誰でも実行可能な方法のように思えるのですが、その割に、私の受験仲間でこの方法を試して上手くいった人はそう多くはありません。
この方法には独特の難しさがあるからです。
一言でいうと、この方法には適当にやり続ける根気、あるいは慣れのようなものが必要なのです。
適当にやり続ける根気とは、楽をする努力と言いかえてもいいです。
これがないと、すぐに教材を回すスピードに無意識がブレーキをかけてしまいます。
上の青字部分で書きましたが、司法試験受験生のほぼ100%が、苦労する努力を習慣化する能力を身につけています。しかしそれゆえ、いわば「楽をする努力」がなかなかできないのです。
おそらくは、頑張って楽をしようとしても、無意識に染みついた苦労する能力との間でジレンマが起こり、楽な勉強にブレーキをかけてしまうのでしょう。
つまり、努力型受験生がこの方法(適当に読む方法)を実行しようと努力すると、次第に「楽をする努力」に疲れてきて、結局、住み慣れた「苦労する努力」に帰っていってしまうのではないかということです。
皮肉な話ですが、ほとんどの司法試験受験生にとっては、いまや苦労するほうが楽だからです。
彼らには、そのほうが馴染みがあるからです。
「楽をする努力」ができない根本的な原因は、普通、人にとって、「努力する」とは、苦労することを意味しているからです。逆にいえば、「楽をする」とは、努力していないことを意味するからです。
努力型受験生には、このテーゼが一般人よりはるかに深く心に刻み込まれています。
彼らは、自分が努力できることにアイデンティティ(自分が一般人と異なる優れた存在であるとの証)を見出しています。一般人よりも努力できることが、彼らを彼らたらしめているのです。
そう考えると、彼らに「楽をする努力」ができないのは、むしろ当然といわなければなりません。
彼らにとって、そんなものはそもそも「努力」ではないからです。
「楽をする努力」なんて言葉は、彼らにとって語義矛盾でしかありません。
自らのアイデンティティにかけて、そんな方法を採るわけにはいかないのです。
彼らには、試験に受かることなんかより、ずっとずっと大切なものがあります。
彼らはとにかく 努力=苦労がしたい のです。
ちなみに、楽をすると、人は普通、罪悪感に駆られます。自分がズルをしているように感じるのです。
この罪悪感の発生もまた、今回の「スピードぐるぐる勉強法」だけでなく、受験生(特に努力型受験生)に勉強法一般を存分に駆使することを躊躇わせる根本的な原因となっているように私には感じられます。
よく「自分の中のリミッターを外す」なんて言いますが、これは言うほど簡単なことではありません。
人間は習慣の生き物です。その習慣を変えろというのは、自分の人格を変えろと命令されるくらいの抵抗感を人に与えるのではないでしょうか。今までのやり方と根本的に異なる思考・方法は、人間に強い拒絶反応をもたらすのです。
一方で、私などはあまり抵抗なくこの方法が採れるのですが、それはまず私がそもそも努力する能力に住み慣れていないことがあります。リミッターを外すといった面倒な作業をする必要がないのが一番大きな理由です。あとは、無茶苦茶怠け者なので、楽をすることにどこまでも貪欲になれることです。
また、今までの読書経験から、本の読み方に複数のパターンを持っていることも大きい気がします。
私はアンチ速読派ですが、たとえば、新書1冊を5分でざっと見るパターンや、帰りの電車で1冊を30分で流し読むパターンには、たぶんかなり習熟しています。
こういう読み方ができる人には、「スピードぐるぐる勉強法」は無理なく採用できる方法だと思います。
繰り返しますが、私自身は、この方法は万人におすすめできるものだとは思っていません。
方法論として、絶対に採用しなければならないものだとまでは思っていません。
この方法を採用しなくても、大学受験でも司法試験でも、何の問題もなく合格できると思います。
ただ、このブログでも再三書いているように、人はやったことはやった分だけできるようになります。
ですから、現時点でこの方法が向かない人であっても、訓練次第ではできるようになるはずです。
以下、今回のエントリーに興味を持って積極的にやってみたいという方に、私が有効だと考える方法を少し書いておきたいと思います。
まずは、
【1】とにかく速度を落とさないように気をつける。
【2】自分にそれができるということを、とにかく意識して疑わない。
既に述べたことですが、心構えの問題としてこの2点が非常に重要です。
さらに具体的なアドバイスですが、
【3】具体的な時間を設定することで、いつまでに読み終えるかを先に決める
といいと思います。
つまり、速く読むという動作を意識するのではなく、読み終える時間を意識するのです。
先に時間的な制約を作って、それを動作として守るように心掛けるわけです。
たとえば、どこからどこまでを10分で「見る」と決めたら、絶対に10分で見終えます。
電車が駅に着くまでにここまで読み終えると決めたら、それまでに絶対に読み終えます。
あと1時間で自習室が閉まる。それまでに間に合わせると決めたら、絶対に間に合わせます。
あたかも時間ピッタリにしゃべり終える生番組の司会者のように、何分と決めたらその時間までに必ず、(終了時間ピッタリに)終えられるよう努力してください。そうやって、環境(時間)に合わせて動作を自在に調整できるよう心がけるのです。
動作を意識すると動作に力が入ってしまいますが、時間に意識を移すと動作の「力み」がとれます。
このように、自分が最もやりたい動作(=速く読むという動作)に意識を集中させずに、意図的に時間に意識を奪われるように仕向けると、(①~⑩のうちの)②③が上手くいくと思います。
おそらく、時間を強く意識すると、時間のほうに「力み」が持っていかれるため、動作のほうの「力み」がとれて自由になるからだと思います。
時間設定のコツですが、自分自身が設定した主観的なリミットよりも、電車の到着時刻や自習室の閉館時間のような、制度上強制的に終わりが来る客観的なリミットをターゲットにするほうが、格段に効果は高くなると思います。
先に述べたように、人間は習慣の生き物です。
こういった訓練を地道に積み重ねていけば、いずれはこちらがあなたの習慣になっていくはずです。
以上です(なんか今回は久々に長くなりました)。
【後日談】
件の桜蔭の女の子ですが、その後、彼女は東大の「文Ⅱ」に現役合格したそうです。
なんで「文Ⅱ」??
後日、友人から聞いたのですが・・・
おとめ座 「そもそも東大の男子をgetするために東大に行こうと思ったのに、
文Ⅰじゃ、相手が委縮して選択の幅が狭くなっちゃうかもしれない。
その点、文Ⅱだったら相手に “安心” してもらえるでしょ」
とのことでした。
・・・なんじゃそりゃ(?)。
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