堺屋太一「知価革命」 と コロナ2020/06/11 22:54

今となっては、思い出せないのだが、何を思ったか、中学生の私は「知価革命」を買って、読んだ。堺屋太一の著作だ。
後にも先にも、この方の著作はこの一冊だけで、当時読んだ感想やら細かな内容は全く覚えていない。
しかしながら、圧倒された記憶と「知価革命」という言葉、それと全く違う世の中になっていくのだ、という刷り込みが残された。

新型コロナの衝撃もあり、なんとなく、あれは何だったんだろうと、ずっと消化不良で心のどこかに棘のように突き刺さっていたのを久々に自覚した。

当時購入した本はとうに売り払ってしまっていたので、貸し出しを始めてくれた図書館に予約したら、すぐに貸し出ししてもらえた。
確かに、1985年出版の古いものだから、そこまで人気はないだろう。

今回、再読して、中学生の私には無理だったかもしれないが、確かに今読んでも、1985年の段階でここまで将来をよく見通せたものだ、と心底感心する。
つまり、衝撃再び、である。


彼のたどり着いた、人間の特質

「やさしい情知」という美意識
「豊富なものを沢山使うことは格好良い」
「足りないものは節約するのが正しい」

は、不変で普遍だ、ということ。

ここから、導き出した答えが「知価革命」だった。


ここに、今回新たな制約が加わった。
コロナによる制約だ。
現時点で明確になってきた制約や不足しているものは、

・移動の自由
・集会の自由
・物流の自由
・モノ
・学校や会社など含めた他人との時間

だろうか。一方で余剰は、

・人
・時間
・家族との時間

だろうか。ほかにももっとあるかもしれないし、もっと適切な切り口もあるかもしれない。

とはいえ、堺屋の導き出した「やさしい情知」からすると、所謂「引きこもり」や「田舎への移住」など場所に縛られない生き方になっていくのかもしれない。

「生産性の向上」という正義も、その時代特有の美意識と倫理観によるものであると考えれば、そんな常識を吹っ飛ばす世の中になるのかもしれない。

正直、供給は無限になされる、という需要側の発想でいる経済学者には腹立たしさすら覚えるし、それを前提として政策を展開することで、労働の供給側たる一般市民を貶めるやり方には、先行きの暗さしか感じない。
そういった意味で、大義名分「生産性の向上」などを吹っ飛ばしてほしいものである。

再度。
名著。
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